不太喜欢这本书但还是看完了因为作业不能不交(;´д`)ゞ

この本は『諸君!』に1997年10月号から2000年10月号にかけて「ぼくと宮崎勤の八○年代」と題して連載した文章を文庫化したものである。作者が私的に身を置いたサブカルチャー領域、さらに絞っていえばロリコン漫画雑誌業界というミニマムな着眼点から書き始めた。八○年代は政治的な仕組みやそれによって規定される言語空間が変わらざるを得らかった時代で、政治、経済、そしてサブカルチャーまでの領域において象徴的な事件が多発していた。「ぼくたちの世代におけるサブカルチャーから政治への急激な『転向』の意味を上の世代も下の世代も理解しにくいようだ」あとがきで書かれたように、初めて読むときはその時代の社会背景知識に欠けているため、内容を理解するのが予想以上に難しかった。しかし、読んでいくうちに、徐々に大塚の言っていることをなんとなくわかってきたた気がする。
まずはタイトルに出た「おたく」について説明したい。「おたく」はアニメ、コミックやゲームの特化した受容者を表現する語で、この本は主におたくの起源について検証し、その語をもって八○年代に露呈した、あるいはその時代ではまだ潜在的だった時代のあり方や思考について述べている。おたくの由来について、1983年の『漫画ブリッコ』六月刊で中森明夫によって現在の意味で初めて用いられたといわれている。マニアたちが友人同士で「おたく」と呼び合うところに発端されたそうである。大塚によると、八○年代には、神々や新人類などの概念も存在していた。
目次を見てみれば、この本の包括している主題の多さがわかる。手塚治虫の「マンガ記号説」、漫画と文学、エヴァンゲリオンと十四歳など現在の読者も理解できる「おたく」文化に関する随筆もあれば、上野千鶴子の「消費社会論」、「フェミニズムのようなもの」、女性性の自己破壊、性と自意識の乖離、菊池桃子批判、女性とオウム問題、湾岸戦争、昭和天皇の死、宮崎勤と昭和の終わり、エロ本業界の女子高生、自作自演の通過儀礼など、一見おたくとはあまり関係ない話もよく出てくる。一つの文章は何ページしかないが、知らない名前が何個も出てくる。そして、いままで読んだ文化論とはだいぶ違う気がする。理論が少なくて、「日本のサブカルチャーはこんなものよ」のような読者にとって親切な論述もまったく見えない。最後まで読んでも、日本のサブカルチャーの全体像を把握できない。そこで、私たちのような外国人読者にとって、おそらく同じ外国人であるIan Burumaが書いた日本文化論のほうが読みやすいだろうと、私は思った。
しかし、大塚の本の中には特別なものがあると思う。その特別さは、本書は決して回顧録の類ではないというところにある。「時代を西歴の十年単位で律儀に区切っていく区分に何かの根拠があるとは思えないが、八○年代という時代は少なくともその終わりの年である八九年によって鮮明に記憶されている。」まさに大塚の言ったように、昭和天皇の崩御やベルリンの壁の崩壊や手塚治虫の死が起きた「時代の終わり」を実感させる一年である。それもまた、「おたく」の語を一般名詞化させた幼女連続誘拐殺人事件がマスコミで一斉に報道された年である。その「おたく」や漫画をめぐる問題は多いが、後ろに「これは細やかな検証はここでは行わない」という文がよく出てくる。ほかの著作ですでに論じた問題だから、ここで繰り返しがらないらしい。どうやらほかの作品をもっと読む必要があるそうだ。
80年代から90年代にわたって、大塚はロリコン雑誌の編集者から漫画家、文筆家になった。その時代を駆け抜けた自分自身の軌跡を描きながら、現在に繋がる視点から鋭くその時代性を評論した。私の個人的な感想ですが、この本では、大塚は直感に頼りすぎて論理的な精緻さに欠けているではないかと思う。